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わが生い立ちの記(その3)

留学をする訳でもなく、旅行をする訳でもなく、20代はパスポート(観光ビザ)で滞在できるMAX3ヵ月のアメリカ滞在を何度となく繰り返しました。

140604_new僕には二つの滞在先がありました。LA(ロサンゼルス)郊外の白人のホストファミリー宅と、カリフォルニア州の州都サクラメントで日本食レストランを経営する日本人男性宅。LA郊外のホストファミリー宅では、そこのお母さん(当時39歳、僕は24歳)にとても気に入られ、当時高校生(16歳)の娘と結婚をすすめられるほど(本気か冗談かは今でも分かりません)。レストランオーナー宅では、板前の修業くらいに厳しくシゴかれました。

1996年のサンクス・ギビングデー(感謝祭、11月28日)に、僕はサクラメント空港でそのレストランオーナー(当時41歳、僕は26歳)と前年の夏以来の再会をします。オーナーとは共通の友人を通じて前年に知り合ったのですが、前年のお客様扱いとは正反対のぞんざいな扱いを受けました。
当時僕は松竹シナリオ研究所(30期生)の基礎科を終了したところで、複雑な事情があって渡米せざるを得ませんでした。

泣きっ面に蜂のごとく、僕はこのオーナーにシゴかれる訳です。とにかくこの世から消えてほしいほど嫌な存在だったのですが、いつの間にか仲良くなっていくのですから人間というのは分からないものです。

僕はとにかく最低3ヵ月間はアメリカ滞在したかったので、オーナーに罵倒されようが、蹴られようが、とにかく笑顔でレストランの仕事とガーデナー(庭を手入れるする人)の仕事を必死にこなしました。そのときの仕事のハードさに比べたら、今なんてまだまだと思えるくらい、本当によく働きました。オーナーと打ち解けた、あるエピソードをお話しします。

滞在してから2ヵ月が経とうした日曜の午後。オーナーと僕は早朝からガーデナーの仕事をしていました。ハンバーガーのランチを済ませ、次の(庭の手入れをする)邸宅に向かう車内で、僕は助手席に座ってサイドガラス越しに外の風景をぼーっと見ていました。するとオーナーが不意に、「ユー(YOU)は、何で今回アメリカに来たんや?」と僕に尋ねて来ました。

正直その回答はしたくありませんでした。なんと答えようかと考えているのと、「女の子か。振られたんか」と問い詰めるでもなく、ぼそっと言ったのです。本当に何気ない、何でもないやり取りなんですが、とても気遣いができる大人に思え、一気にオーナーのことが嫌いでなくなりました。来た直後は、もう二度と来るもんかと思っていましたが、そんな出来事があったおかげで、その滞在後も何度となく訪れては長期滞在し、疲れ果て倒れるまで二人で働きました。周囲からは、一体何のためにアメリカに行って(来て)いるんだろう? と思われていたでしょう(笑)。
アルバイト・シナリオの勉強・アメリカ滞在、20代の僕の三本柱でした。

シナリオライターになるためには豊かな人生経験が必要不可欠。それこそ、犯罪と他人に迷惑のかからないこと以外は何でも意欲的に経験しました。自分は何でもある程度できるけれど、これという物をもっていない器用貧乏であることも認識しました。

東京での日々があまりにも楽し過ぎて、シナリオにも熱が入らず、いつの間にかシナリオライターとして自立するよりも、映像制作やシナリオ作成に携われる職場を探すようになり、映像制作会社(都内)のプロデューサーとして29歳のとき採用されるのです。

しかし肌が合わず、また体調を崩してその会社はすぐに辞め、奈良の実家に戻り、関西で就職することを決心します。「シナリオライターになんてなれない」僕は夢を諦めました。1999年の暮れのことです。

次回は、地元関西に戻ってライターになるまでの話をします。

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